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第11回 幕末維新から現代へ

列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで
列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで
著者:楠精一郎
出版社:朝日選書(朝日新聞社)
ISBN:4022597526
出版年月日:2000年刊

ペリー来航(日本歴史叢書)
ペリー来航(日本歴史叢書)
著者:三谷博
出版社:吉川弘文館
ISBN:4642066616
出版年月日:2003年刊

我々は過去の出来事についてはその結末を知っているので、つい「後知恵」にとらわれてしまうことがある。たとえば、日米戦争は開戦当時の国力を考えれば、決して勝つことの期待できない無謀な戦争であった、という具合にである。しかし、開戦当時の国力を問題にするならば、日露戦争においてもロシアとの間には圧倒的な開きがあった。だからといって、筆者はここで日米戦争開戦時の政府の決断や、まして戦争そのものを肯定するつもりはないが、人間の未来は確定的には分からないがゆえに、局面打開のために「一縷の望み」をかけて少ない可能性に挑戦することもあり得る、と言いたいのである。人間の歴史とはこうした不確かな未来に向かっての、指導者の「ハラハラ・ドキドキ」しながらの決断の集積にほかならない。

 上は『列伝・日本近代史』の「はじめに」での著者の言葉です。
 今年は、日露戦争から100年、先の戦争から60年をむかえます。
 今回は、幕末維新から現代へのメッセージ性をもった2冊をとりあげてみます。
 『列伝・日本近代史』では、前回とりあげた大隈の維新後についても、「蹉跌の「民衆政治家」・大隈重信」としてコンパクトにまとめられているように、伊達宗城・中井弘・伊藤博文・小松原英太郎・大隈重信・横田国臣・原敬・古賀廉造・犬養毅・森恪・近衛文麿・大川周明・岸信介の13人が1章ごとに論じられており、その配列と構成に妙があります。この人選は、日本の近代政治史を講義する中での著者のアイデアから出ているそうです。一見、深い関係性の見えない 13人に著者はくさびを打ち込みながら全体をまとめあげています。
 第7章から第9章までの連結を見てみましょう。
 第7章に「漸新主義者の「平民宰相」・原敬」を配し、章末を

……次には原の怪しげな友人、古賀廉造の登場である。

とくくり、第8章「零落のエリート官僚・古賀廉造」を、

次章では、公職者として失格の烙印を押された古賀廉造を、こともあろうに、かつて後藤新平と同列に高く評価(高橋前掲書)したことのある犬養毅を論じよう。

とつないで、第9章「有為転変「憲政の神様」・犬養毅」へ展開します(ちなみに、犬養が命を落とした5.15事件で、襲撃メンバーの中心人物として本書でも名前があがる海軍将校・三上卓は佐賀出身です)。
 さて、二人の著名人に挟まれた「植民地経営と政治腐敗」という側面から語られる古賀廉造は、16歳で島義勇率いる憂国党に属して佐賀の乱で戦ったという経歴の佐賀人です。その後、古賀は「エリート司法官として着実にその出世コースを歩んで」いき、フランス・ドイツ留学を経て、法学博士となります。しかし、その後さまざまなトラブルに見舞われます。そして、大正7年(1918)、司法省法学校で同窓だった原敬の内閣で内閣拓殖局長官となった古賀は、収賄と阿片密売事件に関連して、懲役1年6ヵ月、執行猶予3年の判決を受け、貴族院を除名、勲章と位記の返上を命じられました。その背後になにがあったかはよくわかっていません。
 古賀は大木喬任と副島種臣に相当親しくしていたらしく、『肥前協会』47号(昭和13年3月)では「大木喬任先生の思い出」、同55号(同11月)に副島種臣について「蒼海先生を憶う」という談話を寄せています。そこには直に接した古賀ならではのエピソードが語られています。
 「蒼海先生を憶う」では、副島が、中国宋代の英雄として知られる「純忠無比の忠臣」岳飛と、「極悪非道の姦臣」としていまだに中国ではその石像に唾や小便を浴びせられる秦檜とを対比したエピソードについても語られます。副島はこの二人について、ともに心の底(皇帝を奪還しようという)は同じであるものの主義のちがいによって、その評価に「忠」「不忠」、「忠臣」「姦臣」の隔たりが生じたというのです。
 この話をとりあげた古賀廉造の心の内に自分の身の上についての機微がひそんでいるように思えてなりません。
 『列伝・日本近代史』にもどりましょう。本書は、章末のみならず、各章を読めば次に登場する人物への布石が埋め込まれているため、この13人を通じてある側面から時代を横断できることになります。
 著者は「はじめに」の中でこのようにも語ります。

最後に、なぜ本書の第1章が伊達宗城なのかを説明しておこう。伊達は外様大名ながら幕末には有力な政治指導者の一人であったが、明治期に入ってからも一時期、維新政府の高官となった。つまり、異なる政治体制の双方に重要な位置をしめた人物であった。同じ意味で、戦前には東条内閣の国務大臣であり、戦後は総理大臣となった岸信介を最後の13章に置いた。そのことによって、とかく歴史の不連続面のみを強調しがちな明治維新と敗戦のふたつの時期を見直してみようと考えたからである。……

 さて、その第1章「伊予宇和島の開明藩主・伊達宗城」では、

……一八四〇(天保十一)年七月、宗城は肥前藩主鍋島斉直の娘猶姫と結婚した。したがって、のちに宗城と政治行動をともにする斉直の子直正は彼の義弟となり、またその直正の夫人が福井藩主松平慶永(春嶽)の妹であることから、慶永とも親戚ということになる。こうした親戚関係が家格を重んじる封建社会において宗城の政治的資産になったことは言うまでもない。

と、伊達宗城と鍋島直正の親交や雄藩藩主の交友についても記されています。
 最終章は先の戦争でA級戦犯容疑者となった岸信介について述べられていますが、幕末から連鎖した列伝を読んでいると、近現代のさまざまな問題について、少なくとも幕末維新までさかのぼって考える必要を迫られているような気にさせられます。しかも、そこに鍋島直正をはじめ佐賀の多くの人物たちが関わってきます。

 幕末維新にさかのぼるとき、一つの重要なポイントとなるのは1853年のペリー来航だということは多くの人に共通した認識でしょう。しかし、その前後の日本の情況についてはさまざまな問題があります。そこで、『ペリー来航』と、この事件を書名に冠した一冊を紹介します。本書はペリー来航前後の日本について新しい知見を提供してくれます。
 この本を読むと、江戸の知識人たちはペリー来航前から西欧の研究を熱心に進めていたことがわかります。第二章「知識人の対外意識」をしめくくるのは、「古賀どう庵の積極的開国論」という一節です。
 第4回でもふれた古賀どう庵は、幕府の学者として名高い佐賀藩出身の古賀精里の三男です。鍋島直正の教育係で直正の改革の指導者であった古賀穀堂の弟でもあります。佐賀藩の海外への意識の背景には古賀父子の影響があったことはもっと注目されるべきでしょう。
 本書は、

……アヘン戦争の直前、まだ東アジアの国際環境の変化が一般に感知されない時期に著わされた『海防臆測』(一八三八・九年)がそれである。……海軍を創設して実地に訓練し、あわせて貿易の利益を「富国の資」にあてるためである。海軍の重要性は当時海防論者の共通認識となっていたが、彼はこれを大胆にも海外への進出に結び付けたのである。どう庵はまた、打払令が西洋に侵略の口実を与えることを恐れてその撤廃を説き、さらにオランダの情報を補正するため長崎貿易に西洋主要国を追加することも提唱した。……

と、どう庵の積極的開国論を解説したあと、

海外進出論はどう庵の独創ではない。海外渡航の禁に抵触するため、公には発言できず、今日残されている論策も少ないが、本田利明や佐藤信淵など、先行者がいないわけではない。ただ、彼の海外進出論は、本田や佐藤のようなユートピア的な願望ではなく、極めて実際的な政策として考えられた点に特色があった。

と、評価しています。そして、『海防臆測』には「西洋諸国の侵略に直面した国々の運命に関心」が集められていることを指摘しています。おそらく、ここには近代日本を呪縛する西欧列強からの侵略への恐怖が確実に芽生えはじめていたように思えます。
 本書にはどう庵の長男・古賀謹一郎も登場します。1853年、ロシアのプチャーチンが日本との国交を求めて長崎沖に現われたとき、幕府が交渉に派遣した応接使の一人が謹一郎でした。

……古賀はどう庵の長男で、オランダ語も学んでおり、対外策諮問に対しては、日本側から外国へ使節を派遣し、いずれは渡海による交易をはじめるべきであると上書していた。……

と父の考えを実践するような謹一郎の働きが述べられています。

 著者は、「まえがき」の中で「鎖国体制を維持したい」当時の日本知識人の問題に関連して、次のように投げかけます。

……そしてより重要なことは、この「予測された、しかしいつ出現するか分からぬ危機」という問題状況が、二一世紀に生きる我々にとって、他人事でないことである。……

 現代日本を考えるときに、幕末維新からの問題が少なからず関わっていること、そして、当時佐賀から輩出した多くの人物が、ここで重要な役割を演じていることを感じずにはいられません。

※ 古賀どう庵……こが どうあん。「どう」の字は「にんべん」に「同」。

(2005.6.25荷魚山人)