Vol.1 副島種臣
佐賀の書を紹介するというテーマでは、まず蒼海副島種臣(副島種臣 関連作品)を取り上げざるをえません。私にとって相当に荷が重いのですが、第1回から蛮勇を振るうしか手がありません。

 副島種臣の書は、明治時代の書家や政治家の書の中でも常に別格の扱いをされてきました。人物としても別格扱いされたことを考えれば肯ける気がします。
 その書は一般的な「書」の常識から大きく逸脱していて、特異な雰囲気を持っています。ただ、その書の別格たるゆえんを説明することは、私の語彙の貧困さでは絶望的です。
 副島という人の書を見ていると、自分の不明さや素養の低さ、あるいは人品の貧しさをあらためて思い知らされて、お手上げになってしまいます。軽率にもこのようなサイトの開設を引き受けた私をしても、こういう殊勝な気にさせる面が副島の書にはあります。
 こうした私の逡巡と一様に語ってはいけませんが、北大路魯山人は次のようなことを言っています。

……副島伯の書が問題になりますのは、やはり、優美が沢山含有されておりますためです。あの字を見ていて、段々見上げる字になりますのは、人物として立派な上に、優美性が具わっているせいであります。……(『魯山人書論』中公文庫)

 さて、今回紹介する書は、明治20年(60歳)頃の作「帰雲飛雨」です。強いてこれを代表作にあげる意図はありませんが、意外に副島の書の中で人気が高い一点です。
 同時に、副島の書の中ではめずらしく、わかりやすい、という気にさせる書です。もちろんこれから先が遠い道のりですが……。
 わかりやすい気にさせるというのは、この作品の「回転」に起因しています。おそらく誰もが、この「回転」に着目することでしょう。この着目点があることによって、鑑賞者の作品への対し方は随分楽になります。私たちはおおよそ芸術作品のたぐいには自然にそういう接し方をしているような気がします。
 しかし、これが副島の書となると、それらしくない印象を拭えません。
 副島の書は基本的に混沌としています。うまく見えてこないけれど全身で受け止めなければ、という気にさせるものが大半です。容易にとっかかりをつけさせてもらえないのです。それに対して、この作品は「回転」が目を惹きます。それ自体はおもしろいのだけれども……。「回転」というテーマは、普通の書家のテーマとしては十分成立しえますが、副島の書のスケールから考えると、俗に過ぎる気がしてなりません。
 とはいえ、「回転」が目に着くからといって、作品にこめた作者の意図がどこにあるのかは簡単に判読できません。とくに副島の場合はなおさらです。
 岡田久治郎(平安堂主人)という人が昭和30年に『墨美』43号で語った副島についての有名な逸話が掲載されています。
 副島邸の玄関番の村松という人が習字しているのをたまたま見た副島は、一画一画を「外のことは全部忘れて」「全心を込めて」「これより遅くは書けない位に遅く書く」ということを続けていくように指導しています。
 さらに、

……書というものは大体間架結構を頭にえがいて書いてはいかん。どんなに形が悪くても、少しぐらい歪んでいてもそれは後の問題だ。出来上がってからのことで書く前にはそんなことを思うんではない。そうして修業を積んで居れば、曲っても筋の通った書ができる。

とあります。こうした逸話が副島の書をどれほど説明するかはわかりませんが、私が副島の着想のようなものにやや違和感をもってしまうのはこの逸話が頭にあるからかもしれません。
帰
雲
飛
雨
 少しだけ観察してみますと、「帰」の右側の回転は割合一般的な字形です。
 「雲」は、古くは雨かんむりはなく、「云」の部分のみを右回転の渦巻きの形で表わしていました。副島は古い字体にも通じていましたので、おそらくそのイメージから雨かんむりの回転につながったのでは(?)と想像します。
 「飛」は、読めはするものの、このような縦画と回転の連続運動で書かれた例はみおぼえがありません。
 「雨」は、「雲」の雨かんむりに呼応して回転させているのでしょうか? いずれにしても「雨」をこのような回転で書いた例もめずらしいと言えるでしょう。この回転運動を引き立たせているのは、「帰」の最後の縦画と「飛」の3本の縦画のまっすぐで堂々とした書きかたにあることは言うまでもありません。
 それよりも、「帰」「雲」「雨」の回転の質がそれぞれ異なっていることに気づきます。
 「雨」の回転は動きの中でできる自然ないびつさがあります。右利きの人が自然に円運動で書くと、このように右上の部分がふくらむのが普通です。
 それと較べ、「帰」の回転した部分では、動きの流れは見えるものの、形は不自然なほど正円形に近いのがわかります。普通、大きさや形をわざわざ変化させて書くことで見せ場をつくるのが書の常道なので、この大きさが一様な正円形には奇怪な感じがします。
 「雲」の回転については動きの必然性よりも円形の図形を描くことが優先されているようにさえ見えます。常識的で自然な運筆を遮る何らかの意志が強く働いていると考えられます。
 また、「飛」の直線が曲線にのみ込まれず、3本堂々と立っているのは圧巻です。普通ならば、縦画は、「雨」の中心の縦画のように、回転に巻き込まれ、傾くか右にそるのでしょう。
 おそらく、「雲」のような回転の質の書は副島以前にほとんど例がないのではないかと思います。あるいは、「飛」に見える縦画と回転の大きな転調をもつ展開の連続も独特な印象をもたらします。この規模の大きな転調は副島の書の特徴といえるかもしれません。そして、こうしたところに強い意志の働きを感じさせます。
 こうして見ると、「回転」自体がこの作品のテーマと考えるよりも、この3種の円運動にある差の中に何か考えるべきものが潜んでいると鑑賞するべきかもしれません(「飛」の運動は比較的「帰」のそれと近いでしょうか)。
 手におえなくなりそうなので、最後に「滄海老人種臣」という落款の例は比較的めずらしく、「副島種臣」「一一学人」などとかかれることが多いことを書き添えて、随分背伸びをした第1回から退散します。

(2004.12.1荷魚山人)