Vol.2 中林梧竹 (中林梧竹 関連書籍)
 第1回では、副島の書に見える回転運動の不思議にふれて退散しておきながら、今回も回転をまくらにしたいと思います。回転という意味で、副島の回転とは対極的にプロの書家の技術を見せつけるのが、中林梧竹の回転運動といえるかもしれません。
 梧竹には、見る人を酔わせるような回転運動の技があります。
滞
 「滞」の右側の2つの円と前回の副島の「帰」を比べてみましょう。梧竹の描いた円の形がいかにいびつかは明白です。梧竹書の特徴のひとつは、右上がりと右下がりをかなり意図的に織り交ぜる点があげられますが、この「滞」の2つの円はその特徴を象徴しています。しかも、その線の躍動的な動きは見る人をひきつけます。梧竹の書には、ゴムまりを壁に向かって、角度や力やスピードをさまざまに変えて投げている時のボールの軌道を眺めるようなおもしろさが溢れています。
 「滞」には他にも梧竹書の特徴が顕著です。これだけ不定形に動いているようですが、2つの円に囲まれるようにできた6つの空間がどれもつぶれたり狭くなったりしていないという点です。
 「滞」が偶然でないことは、「飛」「帰」「洋」「城」などを見ればわかります。線が交錯する場所では、ことごとく空間が広く広く包み込まれていることがわかります。交錯した空間をこれほどまでに徹底して明るく描くという点で、梧竹の右に出る書家はいないのではないでしょうか。そういう意味で、文字がつくる線や空間を、これほど意図的に、確信犯的に描いた「書家」は梧竹がはじめてといってもよさそうな気がします。
 こうした計算は、作品全体の文字の配置や傾きにも反映されています。一字一字の大きさや傾きをこれだけバラバラに変えながら、全体では非常にバランスよくまとめています。
粉
 「紛」「遊」「流」「三」なども梧竹の書の特徴を示す字です。マジックで書いたように線の太さにほとんど変化がない字が梧竹の書には多出します。
 梧竹が一時期多用した羊毛の長鋒(毛の部分が細長い筆)は、非常にやわらかく、使いこなすのがむずかしい筆です。ところが梧竹は、この柔らかい筆を、まるでコシのないムチで岩を砕くように、巧みに操作します。コシのない筆に弾力を作り出し、その弾力を自在に調整するのです。
 「紛」「遊」「流」「三」を見ると、筆の弾力がいちばん効く深さを保って、安定した強い線を描いていることがわかります。そうすることによって、筆が紙に接する部分全体に、ほぼ均等に強い圧力がかかり、線の隅々まで高い密度を維持することができます。そのため、周りの白と線との境目がくっきりして、白をより鮮明に見せます。線の太さが均一になるのはこうした操作の表われといえます。
 均等な太さの線は僧侶などの書によく見られます。隠元や即非など黄檗山の僧や良寛などにもその傾向が見られます。こうした表情は、「修行」に似た一種のストイックな志向に喩えたくなるような印象をもたらします。余剰(線の肥痩)を抑え、制御による洗練(筆の安定した操作による簡明な線)を求める志向……。
 実生活でも梧竹には、観音様を祀るお堂を建てるために自らの書を売って歩いたといわれるように、修行僧のような面があります。
 信心のために自分の作品を売って歩く……。まるで托鉢僧のようなスタイルです。ただし、作品が売れるもの(鑑賞者をひきつけるもの)でなくてはなりません。
 ストイックな志向を「信心」にたとえ、意図的な計算を作品による「表現」にこじつけるとすれば、書を購(あがな)いながら弟子をとらずに飯を食っていくことを選んだ、近代という新しい時代の新しい「書家」――江戸時代までにはなかった職業的な「書家」――という生き方が梧竹の書をつくった、という想像がふくらみます。
 「信心」と「表現」はおそらく、表現者・梧竹の内面においては明確な分明を持ちえなかったろうと思うのですが……。
 梧竹の書に見える近代的(モダン?)なものが何からきているのか? 不思議でなりません。

(荷魚山人)