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第10回 大隈重信をめぐって

明治改暦――「時」の文明開化
明治改暦――「時」の文明開化
著者:岡田芳朗
出版社:大修館書店
ISBN:4469221007
出版年月日:1994年刊

大隈重信(西日本人物誌18)
大隈重信(西日本人物誌18)
著者:大園隆二郎
出版社:西日本新聞社
ISBN:4816706283
出版年月日:2005年刊

前回紹介した中央停車場(東京駅)の開業式典で、

凡そ物には中心を欠くべからず、猶お恰も太陽が中心にして光線を八方に放つが如し、鉄道もまた光線の如く四通八達せざるべからず、而して我国鉄道の中心は即ち本日開業する此の停車場に外ならず、唯それ東面には未だ延長せざるも此は即ち将来の事業なりとす、それ交通の力は偉大なり
(『東京駅の建築家 辰野金吾』より)

という名言を遺した時の首相・大隈重信は鉄道に縁が深い人物です。2度の首相就任期間の合計でも3年に満たない大隈が、明治が終わり大正3年12月の中央停車場開業の日に内閣総理大臣であったことにはある種の感慨をもたずにはいられません。
 本格的に鉄道施設の案を出したのは佐賀藩のグループだったといわれ、江藤新平と大木喬任の連名になる東京遷都の建白書(慶応4年)には鉄道敷設のことが書かれています。
 もちろん、佐賀藩では幕末に蒸気機関車の模型を完成していたので、その縁はもっとさかのぼれます。そして、具体的な鉄道敷設の議論は「築地の梁山泊」とよばれた大隈邸に集まった伊藤博文や井上馨などの間ではじまった(明治2・3年頃か)と言われ、鉄道施設の資金調達にも辣腕を振るった大隈が、首相として中央停車場開業式典の檜舞台に立ったことには、めぐりあわせの妙を感じさせます。
 ところで、新橋-横浜間の鉄道が開通した数ヶ月後に断行された太陽暦採用にあたっての中心人物が大隈だったことは意外と知られていません。
 『明治改暦――時の文明開化』は、暦の研究家である著者による明治前後の暦についての好著です。著者は、明治5年11月9日(太陽暦12月9日)から行われた改暦の詔書を解説しています。

……わが国でこれまで行用されてきた暦法は太陰(月)の朔望(みちかけ)によって暦月を立て、太陽の運行に合わせていたから、二、三年に一度閏月を置く必要があり、閏月の前後には季節の上で速い遅いがあり、その結果誤差を生じるに至ったのである。……(中略)……さて、太陽暦は太陽の運行に従って月日を立てているので、年によって多少相違することはあるが、季節に遅れたり進んだりはしない。四年ごとに一日の閏を置くだけで、七千年後に僅か一日の誤差を生じるだけである。これをこれまでの太陰暦に比べれば、はるかに精密であり、その便利か不便かについては今さら議論する必要もない。……

 ところが、本書によると改暦の理由はなかなか複雑です。「暗に大隈重信を改暦の推進者としており、改暦の理由を財政問題にあるとしている」矢野文夫の『竜渓閑話』に着目した著者は、論考を進めています。
 そして、早稲田大学図書館に所蔵されている大木喬任から大隈に宛てた手紙を紹介し、

この書簡は太陽暦改暦の議が大隈の主導により、同郷の盟友である大木文部卿の担当で進められたことを示しており、大隈が回顧談で述べていることを裏付けている。

と結論づけています。
 さらに、第3回でも紹介した『大隈伯昔日譚』や当時の状況を考察して、改暦の真相へ迫ります。『大隈伯昔日譚』を要約して次のように語ります。

ここで大隈は旧幕時代には官吏の俸給が年俸制であったから、閏年でも問題なかったが、維新後は月給制になったため、閏年には一か月余分の出費が必要となった。しかし、当時の政府にはその余力がなかった。ところが明治六年に閏月があることがわかったため「此閏月を除き以て財政の困難を済はんには、断然暦制を変更するの外なし」との結論に至ったと述べている。
 当時、留守政府の財政的最終責任を負っていた参議大隈の言だけに、この財政上の問題から改暦を断行したとの主張は極めて重要な点である。

 そして、以下のようにまとめます。

結局、政府は当然予定されていた明治五年十二月分と、来るべき明治六年閏六月分の計二か月分の月給その他諸経費の節約ができたわけである。わずか半年の間に二か月の月給が不要になった。これは政府財政にとって大きな救いの神となったわけである。……

 幕末時代から武士としては抜群の経済感覚をもっていた大隈ならではのアクロバット的な政策です。
 なお、引用中の「留守政府」とは、もちろん岩倉使節団のいない政府を言っていますが、この改暦の報は使節団メンバーにも伝えられており、本書では、使節団メンバーたちの記録も丁寧に紹介しています。
 その中で、久米邦武『久米博士九十年回顧録』にも言及し、「何の必要あって改暦したかは、大使、副使以下書記官連も理解が出来ず」であったが、この執筆時の久米は政府の企図を言い当てています。生涯の友人である久米と大隈がこの件について語り合ったかどうかはわかりません。

久米丈一郎(邦武)は八太郎より一つ下であり、内生寮にも一年遅れて入った。その頃八太郎は洒掃頭という少年生のトップであった。丈一郎とはすぐ親しくなったらしい。そこで一年下の丈一郎に八太郎は歴史の書物の読み方をアドバイスした。八太郎はその頃すでに『資治通鑑』を読了していたという。『資治通鑑』は中国の歴史を編纂した大長編の書物である。八太郎の勉強は漢文学の最終段階まで進んでいたと見てよいようだ。……

と、佐賀藩弘道館時代の大隈重信(八太郎)と久米のエピソードを紹介するのは、つい先月刊行された大園隆二郎『大隈重信』です。維新以降の大隈についての本が多い中で、本書は主に幕末の大隈に焦点をおいて書かれています。同時に佐賀藩と弘道館、そして大隈と同じ空間を生きた人々が生き生きと描き出され、あたかも佐賀の幕末人物列伝といった趣きです。

枝吉次郎が京都から帰った一八五八(安政五)年、八太郎より六歳上で義祭同盟の猛者深川門作(亮蔵、一八三二-一九〇二)が、京都に入り岩倉具視に面会している。以前、門作は江戸昌平黌に寄宿し学んでいたが、強い攘夷思想の持ち主で、ときの老中堀田正睦の斬殺を心中、期していたという。もともと、真影流剣術の達人で、武勇伝もある。あるとき、江戸の数寄屋橋で無頼漢にからまれた。これを蹴散らし川岸に下りると、土手の高いところから、その仲間が薪をどんどん投げつけてくる。門作は脇差を抜くや、右に左に受けつ払いつ、そのままさっと難なく、彼らのところに駆け上がった。この予想しない早業に恐れた無頼漢たちはクモの子を散らすように逃げ去った。この出来事は見物していた江戸の庶民の格好の話題となり、「あれは、鍋島だ、鍛えが違う」などと騒がれた。……

と、描くように、語られることの少ない多くの役者たちが登場します。深川亮蔵については、これにつづき面白い話が語られていますが、それは読んでのお楽しみです。ちなみに枝吉次郎とは副島種臣のことで、もちろんこの本の最多出場者のひとりです。
 副島と大隈が、慶応3年(1867)、徳川慶喜の側近であった原市之進に大政奉還を迫ったことについては、副島や大隈が自ら語っていますが、本書では、

……直正の内意を受けて八太郎は副島次郎とともに長崎から江戸に向かった。その時ちょうど、長崎に土佐藩の後藤象二郎がおり、土佐藩の朝日丸で大阪へ向かおうとしていた。八太郎は幕政要路の者に大政奉還を勧めることを告げた。後藤は鍋島直正の真意はどうかと重ねて問うた。八太郎は「公の意見が其である、故に思い立った」と答えている。

と、この行動に直正の意向が働いていることを論じます。その裏づけとして、鍋島直正が幕府の混乱と大政奉還について、「これは容易ならぬ重大事件で、自分から勧告すべき筋のものでないから、むしろ書生論で迫ったがよかろう。今より密に東上し、原市之進に面談して大政返上の決心を促す手段を講ぜしめよ」という『久米博士九十年回顧録』に見える下命を引用し、これが直正の側近である久米の発言であることを重視しています。「書生論」という言葉は大隈や副島の暗躍に似つかわしく、リアルな響きがあります。
 この運動は失敗し、二人は佐賀へ送還されます。しかし、この時同船していた後藤らの活躍で大政奉還が成し遂げられたことには歴史のあやを感じます。 
 本書にはその他、有田生まれの文人で、鹿島を中心に佐賀の教育に尽力した谷口藍田と、大隈や副島ら長崎の致遠館のメンバーとの交流、藍田が致遠館の教師フルベッキと非常に懇意な間柄であったことなども丁寧に語られています。
 多くの登場人物たちに対する著者の愛情に満ちたまなざしがうかがわれる本書は、幕末佐賀の歴史の重さと厚さを実感させてくれます。
 奇しくも、雑誌『佐賀』(佐賀郷友青年会/題字-副島種臣)第38号(明治36年2月16日発行)の雑報には、佐野常民の訃報とともに、深川亮蔵(「客臘〈前年12月〉廿一日」の歿と記す)と谷口藍田(「客臘〈前年12月〉十四日午后五時」の歿と記す)の訃報が並んで見えます。
 誌上で久米邦武が筆を執った深川亮蔵の小伝には、維新後も鍋島家に献身的に仕え、第7回で紹介した鍋島直大の岩倉使節団随行の際には、鍋島家の家事を委任されたことが記されています。
 谷口藍田の葬儀は東京麻布の賢崇寺で行われ、記事中の会葬者の中に、『大隈重信』で幕末の交友が記されている副島と大隈の名が見えます。

(2005.5.20荷魚山人)