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第7回 岩倉使節団の記録と久米邦武

岩倉使節団という冒険
岩倉使節団という冒険
著者:泉三郎
出版社:文春新書
ISBN:4166603914
出版年月日:2002年刊

米欧回覧実記(一)
米欧回覧実記(一)
著者:久米邦武(編)
田中彰(校注)
出版社:岩波文庫
ISBN:4003314115
出版年月日:1977年刊

 東京JR山手線目黒駅のすぐ前、久米ビルの8階に「久米美術館」があります。
 ここには、日本近代絵画のさきがけとして知られる久米桂一郎の油絵の作品が展示されており、また一角にはその父親であり、日本の近代歴史学の先駆者である久米邦武の論文の原稿や岩倉使節団の資料が陳列されています。
 岩倉使節団は、明治4年(1871)12月から約2年ものあいだ、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通という政府の首脳を中心とした46名の使節がアメリカとヨーロッパを巡遊したもので、いまだ政府が安定しない時期の強行でした。訪問先では大歓迎を受けましたが、条約改正への足がかりにしようという目論見は不発に終わりました。
 この岩倉使節団の記録『特命全権大使 米欧回覧実記』は現在でも岩波文庫(全5冊)で手軽に読むことができます。そして近年もこの記録をもとに多くの著作が発刊されています。全百巻、5冊、2110ページにおよぶ『特命全権大使 米欧回覧実記』の執筆者が鍋島直正の近侍であった久米邦武です。
 本書の校注者で、岩倉使節団研究の第一人者である田中彰の解説に、

……『米欧回覧実記』の構成とその内容には、十九世紀後半における欧米およびその対極にあるアジア、アフリカに対する、岩倉使節団の東西文明観ないしは世界観が如実に示されており、そのなかで各国への関心のあり方を看取することができるのである。それは同時に、幕府にかわって天皇をかつぎ出し、廃藩置県という日本の統一国家形成にふみきったばかりの、若い近代日本の政治指導者たちが、天皇制国家という枠組みをもちながら、いかなる近代国家への道を選ぶか、その模索の旅の知的表出でもあったのである。

とあることをみれば、本書は単に使節団研究にとどまらず、明治維新の人々の文明観や考え方などを知るための基礎資料という性格をもつことがわかります。
 『米欧回覧実記』は漢文訓読体の漢字片仮名交じり文で、たとえば、

「バイブル」ハ西洋の経典ニシテ、人民品行ノ基ナリ、之ヲ東洋ニ比較シテ語レハ、其民心ニ浸漬セルコトハ四書ノ如ク、其男女トナク貴重スルコトハ、仏典ノ如シ、欧米ノ人民ニ、尊敬セラルコト、其盛大流行ヲ東洋ニ於テ比較スヘキモノナシ、抑モ人民敬神ノ心ハ、勉励ノ本根ニテ、品行ノ良ハ、治安ノ原素ナリ、国ノ富強ノ、因テ生スル所モ此ニアリ、譬ハ酸素ノ如シ、無形ノ地ニ汪洋シテ、燦爛ノ姿ヲ呈シ、無味ノ質ヨリ成リテ、芳烈ノ性ヲ発ス、酸素ハ人民須臾モ離ルヲ得サルナリ、故ニ西洋ニ於テ、国土民情ヲ説ク、必ス其宗教ヲ詳カニス、……

と西欧における「聖書」と社会におけるその意味を分析し、わが国の参考にしようという遠大な試みがうかがえます。このように全編にわたって、産業や風俗をはじめ、比較文明論にまで踏み込み、広範で詳細な記録が、多くの研究者たちを魅了する名文で書き留められているのです。
 『米欧回覧実記』は、この原文の名文を味わうことが理想ですが、おおよその内容を知るためには、田中彰『岩倉使節団『米欧回覧実記』』(岩波現代文庫)など多くの概説書が出版されていますので一読をおすすめします。
 今回は「米欧回覧の会」の設立者でもある泉三郎『岩倉使節団という冒険』を見てみたいと思います。この本は、「岩倉使節団」の関連書籍が多い中で、案内書でありながら、使節団のメンバーの多くのエピソードが盛り込まれているところが楽しさです。
 本書では、久米邦武について、

そして、大使直属の随員として記録係を命ぜられたのが久米邦武である。久米は三十三歳、漢学を学び、旧佐賀藩主、鍋島直正の近侍として仕えた。岩倉大使はフルベッキの薦めもあったのであろう、初めからこの旅について記録を残すことを考えており、その要員として洋学者ではなく漢学者を望んだ。久米に白羽の矢がたったのは、直正が岩倉と親しかったことによるものらしい。久米の随行が決まったのは出航のわずか一週間前だったという。

とあります。
 そもそも洋行使節団を計画したのは大隈重信でした。

大隈は廃藩置県が成功するとみるや、明治五年に条約改正の期限がくることに目をつけ、これを機会に使節を海外に派遣して各国の事情を調査し、改正にむけて準備をすすめるべきだと考えた。内政一段落で、次の政治課題は外交だという読みもあったであろう。
 そして大隈の手許にはすでに素案があった。というのは、明治二年の時点で、当時政府の顧問役だったギード・フルベッキが使節派遣の企画書をつくっていたのだ。これも大隈の要請によるものと推察されるが、それを大隈は時期をはかり秘蔵していたのである。

 ところが「大隈使節団」は乗っ取られるかのように「岩倉使節団」へと変更されます。しかし、大隈はこれで腐るどころか、使節団派遣の留守政府で「鬼の居ぬ間の洗濯」をしようと考えます。つまり、次々と改革を断行しようと企むのです。たとえば、留守中に旧暦から太陽暦に変わったのも大隈のアイデアといわれています。そして、この時期の江藤新平、副島種臣、大木喬任ら佐賀出身参議の活躍はめざましいものがあります。
 一方、岩倉使節団の中にも佐賀出身の人物が見受けられます。副使の山口尚芳(外務少輔・33歳)はその後も明治政府で活躍します。
 また、第5回で紹介した『新訳考証 日本のフルベッキ』の致遠館についての注記の中で、フルベッキと佐賀藩士を中心に成立した「蕃学稽古所」の箇所を見ると、

……舎長には副島次郎(種臣)、その助に大隈八太郎(重信)、執法には中野剛太郎(健明)、中山嘉源太(信彬)、堤喜六、副島要作、中島秀五郎(永元)が選ばれた。……

と記されていますが、岩倉使節団にはこの中の中野健明(司法権中判事・28歳)、中島永元(文部省七等出仕・28歳)の名も見えます。その他、中山信彬(兵庫県権知事・30歳)と池田政懋(文部大教授・24歳)も佐賀出身者として記録があります。
 そして、第3回のベルツ明治11年の日記で「洗練された社交振り」を見せた鍋島直大も留学生として同行しています。
 帰国後、久米は政府の修史事業に携わり、帝国大学教授になりましたが、明治25年(1892)、ある有名な筆禍事件で官界を追われます。明治32年(1899)、弘道館時代からの友人である大隈重信の招きで早稲田大学に迎えられ、大著『鍋島直正公伝』の編集にも力を尽くしました。
 非常にユニークなエピソードに富むことでも知られる、西洋文明啓蒙の立役者である久米は、フランス留学から帰国した息子の桂一郎を「彼は半西洋人なり」と言って同居を拒み、晩年になってやっと大隈重信の仲裁で和解したといいます。

(2005.2.20荷魚山人)